4 庄三郎の軌跡
「吉野山の桜を買った話」
1868年(明治元)年に神仏離令、明治5年に修験道禁止令。大阪の商人が吉野山の桜の木を買いに来る(薪にするため)
吉野山の住人は了承したが、庄三郎は反対。代金全額(五百円か八千円)を庄三郎が負担して買い戻した。
「新政府が出来て、外国人が訪ねてくる。その日のために吉野山の桜は保存すべき」。
「木馬曳(きんまひ)き」
1868年、木材運搬のために木製の橇(そり)を考案。吉野で初。ここから全国に広まり、昭和30年代まで使用されていた。
「青山20分の一の出資」
国道169号線(奈良市~新宮市東熊野街道)を事実上建設したのは庄三郎。山林評価額の20分の一の金額を出資させた。
・土倉家は表向き十数万円だが、その数倍を負担。
「山林を処分し、資産の三分の一をつぎこんだ」とも。
「土倉街道」
(吉野~三重大杉谷の木材を運搬するための林道を整備)伊勢の海産物が川上村へ。古川嵩(かさむ)に協力し、道路建設・大台教会建設も。
「奈良公園。春日山原始林」杉、檜30万本、果樹1500本、細かく技術指導。第二室戸で花山は損害なし。
「上野・内国勧業博覧会に出品」
13床(艘)の筏/11庄の筏/垂木15年生/磨丸太40年生/樽丸120年生/杉酒樽140年生/栂椗柾500余年生など
「銀行・鉄道会社」
吉野木材銀行(南都銀行の前身銀行)、吉野鉄道(近鉄吉野線)の設立に関与。
『評伝 土倉庄三郎』「彼の手腕によって利殖したものは祖父伝来の総量の二十分の一にも足りないのでは」。山林王というより「国士(=憂国の士)肌の林業指導者であり、近代林業のパイオニア」。
「日本林学の父・本田静六」
「赤松亡国論」「吉野の造林法とドイツの造林法の学理に拠りて、漸(ようや)く日本の造林学を構成せり。而(しか)して、其の吉野の造林法とは、実に土倉翁に就て学び得たるものなり」
「年々戦勝論」
日清戦争では、莫大な軍事費を費やしようやく得たものは、他国の干渉で変換、多くの兵士を喪失。→荒野に気を植えれば、巨万の富を得ることができる。
・・・つづく