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杉の湯ブログ

〜吉野杉の杜に包まれた優美なホテル〜 ホテル杉の湯から、季節の杉の湯のプラン、川上村のイベントなど魅力をいっぱいの情報を発信していきます。

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Posted by オオサカジン運営事務局 at

2016年07月20日

山林王 土倉庄三郎の生涯~鉄田憲男氏講演より(2)

1、土倉庄三郎の生い立ち

家伝によると、楠正成の三男・正儀(まさのり)の子が当地に住み着き、土蔵家を創始(室町時代)
・庄三郎は13代目。庄三郎の父は土蔵姓。庄三郎から土倉に。土蔵は質屋(金融業)のこと。
・山林取引で文化年間(1804年から15年)に大きく成長
・明治20年の年収は11万円で当時の三井家に並ぶ。
・庄三郎は三代目庄右衛門の長男として1840(天保11)年大滝村に生まれた。

2、庄三郎の青年時代
(中略)
・16歳の時、「宇兵衛事件」。西奥郷(現在の五條市西吉野町から下市町)の宇兵衛が、五條代官所と結託(賄賂)、「吉野郷材木方」の総代になろうと画策した。庄三郎は代官所に抗議し、取り消させた。
・実力が認知され、病気がちの父も庄三郎に家業を任せるように。
・26歳で結婚。相手は下市町の旅籠の看板娘。

3、口銀(くちぎん)問題
・江戸初期、岩出(紀州藩)に看取所が設けられ、筏を見分。材木価格の10分の一の口銀(藩の税金)が取り立てられる。
・明治時代に撤廃運動がおこり、庄三郎が旅費を出して東京へ嘆願。→口銀が全廃。
・しかし口銀の半分を河川改修費や育林日に充当することにし、地元に還元。→村財政が安定した。
・この時期、庄三郎は父の元で林業を学びつつ、「口銀問題」を通じて政治への関心を高めた。


・・・つづく  

Posted by ホテル杉の湯 at 09:00Comments(0)川上村豆知識

2016年07月14日

山林王 土倉庄三郎の生涯(1)~鉄田憲男氏講演会より

ホテル杉の湯で何度も講演いただいております鉄田憲男氏の6月1日講演からご紹介させていただきたいと思います。奈良吉野の産業、文化、歴史の深い知識と思いを語っていただました。内容が深いものですので、何度かに分けて掲載したいと思います。

ストーリー概要

造林発祥の地である奈良県吉野地域には約500年にわたり培われた造林技術により育まれた重厚な深淵の絨毯の如き日本一の人工の森と森に暮らす人々が神仏います地として守りづつける野趣あふれる天然の森が、訪れる人々を圧倒する景観で迎えてくれる。

ここに暮らす人々が、それらの森を長きにわたって育み、育まれる中で作り上げた食や暮らしの文化が今に伝わり、訪れる者はそれを体感して楽しむことができる。

土倉庄b三郎とは
(南都銀行「奈良ゆかりの人々」より)
・奈良県の面積の約70%は山林。特に吉野地方は昔から林業が盛んで良質の吉野杉が特産品。
1840年(天保11年)川上村で生まれた土倉正三郎は林業により大きな功績を残し「吉野林業の父」。
・山林経営者だった父の影響で、16歳で家を継いだ土倉や吉野材木方の代表として林業発展に注力。
・最初に手掛けたのは、効率的な木材輸送。筏流しの水路整備のため、吉野川を改修し、道路の整備に莫大な私財を投入して、道路を建設。
・造林法を研究し優良材を多く生産できる工夫を案出。
・「密植・多間伐・少主伐」が特徴の土倉式造林法を紹介した『吉野林業全書』は今、林業家のバイブル。
・全国で講演指導を行い、林業発展に尽くし、静岡県天竜川流域、群馬県伊香保などで成果。
・晩年は川上村村長となり、村有林も育成。

・地場産業発展に貢献する一方、政治家や社会運動家とも交流。自由民権運動を進める板垣退助の西欧視察への旅費援助は有名。
・土倉の造林法により、乱伐で低下していた国内の森林率は回復し、森林を守る活動は今も継続。

・・・・(2)に続く

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鉄田憲男氏
 (南都銀行公務地域活力創造部 勤務 )
NPO法人奈良まほろばソムリエの会 専務理事。奈良佐保短期大学講師。  

Posted by ホテル杉の湯 at 10:35Comments(0)川上村豆知識
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